★★★ 終わりなき 地獄の激痛物語 ★★★


  1999年〜 誤診と優しい怖い人




私が入院して手術を受けることになった病気は、子宮の入り口の前ガン状態であって

抗がん剤治療を受け、開腹手術をするようなものではない。手術後もお産程度のもので

数日すればすぐに個室から出ることが出来ると言われた。


しかし、切り取った部分は、一応ガンが本当にないか病理にまわす。

それで何ともなかったら晴れて退院ということになる。

運悪く見つかってしまえば、子宮を全摘出することになる。



医者曰く、手術して開けてみないと正直分からないと言う。

現に、筋腫で手術した人に後で子宮をみたら筋腫より内膜症の方がひどかったとか

筋腫で手術したはずなのにガンが見つかったとか、そんな話は入院中よく聞いた。



物語の前回入院した時に、子宮外妊娠で手術を受けたと書いた。そして一年後に

それが子宮外妊娠でも何でもなかったことがこの病院でも明らかになった。

書き忘れていたことに気付いたので少しその話をしよう。

書き忘れが多すぎる。本当はこの裏側で色んなことが他にもあったと今思い出した。


入院する少し前に、あまりの激痛と出血で救急で夜、この病院に運ばれたことがあった。

その時はその場ですぐに入院となった。 思いっきり書き忘れていた内容である。


安静度は高く、車椅子も使うことが出来なかった。検査の時、子宮から異物を取った。

検査に回した。数センチほどの棒であった。この棒はなんと、前回の手術で私の子宮口を

拡げる為に使ったモノであるのに間違いなかった。 なんということだろう・・・。


私はこの異物のせいで痔だと思って座薬を止め、胃を思いっきり荒らされた。

絶えず異物感もあった。その異物感は四六時中嫌な気分にさせるものであった。

当たり前である。そんなモノがゴロゴロ子宮の中で一年間も動き回っていたのである。



そして、ここで初めて腺筋症と言われた時、子宮頸部に5ミリほどの袋状のものがあった

膣エコーの検査でそれは分かった。経験のあった医師だったので、それはすぐに何か

分かった様だった。粘液を分泌する腺が人より少し大きかったのである。

これが子宮外妊娠と間違われ、ただの月経を異常出血と言われ手術まで受けたのだ。

腺筋症でもないと言われ、痛がる私をみんなで笑った病院である。


学会発表もん?手術をしたあんたが学会発表もんだよ!


でも、過ぎたことをうだうだ言っても仕方ない。その病院には行かなければいいだけである。

粘液を分泌する腺なんて私でも知っている。私は思った。もしこの先不妊症になったら

受けるであろう頸管粘液検査の時、絶対に前もって医師に伝えなくてはいけないと思った。

本当に情けなくなる。


私の病棟は、婦人科病棟で、特にガン患者の方たくさんいる病棟である。

産婦人科病棟とは別にある。(当たり前のことなんだけど)



病気のひとつをとれば、癌というのは死を想像し、誰もなりたくない病気のひとつでしょう。

私も、癌患者が多いこの病棟に入った時は、恐怖ですれ違うのも怖かったのです。

髪のない人がいっぱいいて、眉もないので外見がどうしても怖い。

そんな光景は今までにテレビでしか見たことがないのである。



しかし、私はこの人達と23日間同じ生活をし、嫌というほど生きることの素晴らしさを

教えられることになる。いいえ、生きる素晴らしさだけでなく、いろんなあるとあらゆる

事を教わることになる。


激痛物語6で書いたような、数年間の痛みというもので、ゆがんでしまった私の心も

360度変えるほどの影響を受けることになる
(360度回転したら元に戻ってしまうが)


私の知っている癌患者の人達は、意外なことにとても明るく優しかった。

人間、これほど人に優しくなれるものかというくらい優しいのである。

そして、誰一人として自分の病気、病状を隠す人はいなかった。


なにより一番驚いたのは、女が一番気にするであろう外見をまったく気にしていない。

テレビで見るような、抗がん剤の副作用で髪がなくなり、眉もなくなる。

そんな時に必ずと言っていいほど着けるカツラなんて付けている人はいなかった。

私が昔、誤・子宮外妊娠で入院していたガン患者の人達もそうであった。と思った。

でも、それは違っていた・・・。

外出許可をもらった人の姿を見た時、それは言われなくても分かってしまった。

飛びきりオシャレなカツラを着けて出て行く。



女はとかく、いくつになっても髪をいじるのが好きなものです。

好きな人の為に髪を結んでみたりひねってみたり、リボンをつけたりカールしてみたり。

女にだけ与えられた唯一飾れる部分である。

私はその時、彼女達の心の中を少しだけ知った。

少しだけという言い方は、その人でないからその人の苦しみや悲しみも

分かるはずもなく、と言う意味である。そして今でも分かることはない。


でもやっぱり明るい。前向き、決して人のせいなんかにしない。

抗がん剤を打って副作用で吐き続けている、癌が転移し手がつけられない

そんな人達でも、自分よりまず人、そして副作用がない時は底抜けに明るい。


どうしてこんなに苦しい状況におかれているのに楽しい顔が出来る?

どうしてそんな姿になっているのに楽しい顔が出来る?

私のその時の正直な気持ちである。


廊下では、私肺に転移したから個室に行くわ、咳でみんなに迷惑かけるからさぁ♪

また戻ってくるんだから看護婦さんにベット空けといてって言っといてね!じゃ!

そして元気いっぱいで<見た目はそうではあません>歌でも唄いそうな勢いで病室へ向う。



私はいつも痛いからと人に当たってきた。痛さが伝わらない歯痒い気持ちが

私の気持ちをイライラさせるのです。でも、まだこの時の私は激痛物語6の

気持ちに変わりはありませんでした。

喫煙所にほとんど居て、煙草まで吸っていた。



数日がたったある日

いつものようにこの一生治らない病気のことを考えながらイライラして煙草を吸っていた。

見たことない顔たけど、何回目?それとも移って来たの?


この何回目と言う意味は、前回私の同室の彼女達を紹介した「」の中の回数のことを言う。

これはどういう意味かと言うと、一度治って退院し、また再発して戻ってきた回数の

ことです。 最初の挨拶はだいたいこんな感じではじまるということが分かりました。


戻ってくるとおかえり〜。退院する時は、もうあんたの顔は見たくないから
戻ってくるなよ!

と笑って見送ります。



私に声を掛けて来た人は、正直ものすーーーーーーんごく怖い感じの人でした。

髪のない人でお腹から管をいっぱい出して、大きな点滴をぶら下げている。


私がはじめてです。と答えたら、どう見ても痛そうで苦しそうなその人は

何か飲む?と聞いてきました。

いえ、いいです。と答えたら、その人は去っていきました。


と思ったのです。するとしばらくしてその人がまた戻って来たのです。
ジュースを持って。



正直言うと、私は本当は喉が渇いていたんですが、自販機が遠くてお茶で我慢してたところだった。 

病棟は2階で、1階の遠い自販機まで買いに行くのが
とても辛かったのです。

体の辛さはなかったのですが、神経的に疲れて買いに行く
気力もなかったのです。

何の希望もなくぼーっと道行く人を見て羨ましがってた。

そしてまだ自分の病気を人のせいにしてた。



明らかに私よりも辛い状況の人が遠い自販機までジュースを買いに行ってくれた。

自分の分は買ってこなかったそうです。

点滴をしていて色んな管があっちこっちから出ているので片手しか使えず


ひとつ買ってきたから、これ飲みなさいねと言って私にそっとくれました。

その顔は決して綺麗ではなかった。眉もなく顔色も悪く、肌はひどく荒れていた。



そして何も聞かず、帰り際、にっこり笑って飴玉をひとつ

私の手に渡してくれました。


手に貰った飴玉を見ると、その袋には
体にいい黒飴と書いてあった。

今もその時の光景が鮮明に思い出される。

こんなたったひとつの飴玉にも、何かの希望を持ちたかったのではないか

私はそう思った。彼女の後姿は決して美しくはなかった。体中から管が出ている

寂しさが、悲しさが滲み出ていた。私はその後姿を見て、少し心が熱くなった。 



そしてまた数日後、その人はまた現れた。

私が煙草を吸おうとしたら禁煙室はもう閉まっていた。

閉まっていたというより、縄がかかって入れないようになっていたのです。

そっか、消灯過ぎたら入れないんだと私は思った。そして、あきらめて帰ろうとしたら

トイレからその人は出てきました。トイレからここまでの距離はそんなに遠くない

でもゆっくりと歩いて私のところまで来た。そしてナーススーテーションをチラッと見て

縄を取ってくれた。取ってくれたというのはちょっと正しくない言い方である。

手の自由がきかないので足で縄を外してくれた。


イライラするでしょ? と言って母親のような顔をしてニッコリ微笑み病室へと帰っていった。

私が一番怖くて近寄りたくなかったこの人は、以後退院するまで、いつも私に

優しくしてくれた。



ベットに戻って天井を見ていると、心がまた少し熱くなるのが分かった。

思えば私は、あの4年前から、痛みや病気で苦しむ人と接することを自分から

さけていた。痛みは理解してもらいたかったが、自分が病気であることも

苦しいことも、病院の医師、看護婦以外の誰にも見られるのが嫌だった。


ことに、コンビニやデパートで、苦しんでる私を見て、気持ちわるがられる事はあっても

私に優しくしてくれた人はいなかった。優しい声も掛けてはくれなかった。

友達さえも私を笑った時期がある。痛いの?痛みぐらいどうってことないじゃない。

女の証明がちょっとひどいだけなんでしょ?陣痛の痛み?そん訳がない

私の痛みはなった本人しか、そして、絶対に私にしか分からないのである。



痛みがもし1日だったら、これほど人を憎む程の心のゆがみは生まれなかっただろう。

4年間一時も痛みは私を休ませてはくれなかった。

心身症にまでなった。ストレスで胃も穴だらけになった。何度もの過喚起の発作で

死ぬ思いをした。不安でパニックになり心臓まで悪くなった。薬の副作用で人込みにも

行けなかった。着たい服もゆっくり選ぶ事さえ出来なかった。

友達からも隠れるようになった。団地に響く幸せなさうな子供達の声を聞くのも嫌だった。

昼間からカーテンを閉め、テレビのボリュームを最大にして布団に包まって夜を待った。

そのテレビも見れなかった。出てくる人すべてを痛みと繋げてしまう。



女の証明の時は、いつも今度こそ子宮を取ってしまおうと思う。そして叫んでる。

来月からは痛くなくなる。だから耐えよう。

来月はもうこの子宮はないんだ。だから耐えられる。頑張ろう。頑張って。


痛くない。痛くない。頑張れ。頑張れ。頑張って。頑張って。頑張るんだ。


こんなことを毎月繰り返しながら、もう今年で10年になる。

この子宮というのは、なんて神秘的なものなのだろう。

すべては子供を産む為、この手で抱く為だけなのである。

その為にこの10年。一時も休むことなく訪れる激痛と戦ってきた。

そこに何の意味があるのか、何がそこにあるのかは分からない。



どうしても当時のことを書いていると暗くなってしまうのに今気がついた。

豹子ちゃんの話でもしようと思う。(笑)



次の朝、私は自分からいろんな人に声を掛けていた。

昨日までは、豹子ちゃんの上着騒動があったものの、話はせず

カーテンを閉め切り、ウォークマンで元気だった頃よく聴いていた

阿川泰子の曲ばかり聴いていた。隣の犬子さんが気を使って声を掛けて

くれても私は無口だった。と・に・か・く暗かった。


そして、その日は同室の人に私の病気のことも言った。

他に病気があることも言った。愛する人の話もした。今までの4年間の話もした。

みんなも話してくれた。特に、豹子ちゃんは内膜症だったが、私の腺筋症と同じ類の

病気だった。内膜症は一般的に普通の痛みからするとかなり痛いのだが

癒着がない限り飲み薬で効くものである。でも彼女は癒着がひどくてその為に

手術をするのです。だから痛みの話をし出すとキリがなくなってしまう。

ひとりでしゃべりまくっている。


私はまだその時若かったから、子供はもちろんいなかった。

そんな環境でもなかった。なによりも生理は止めてしまっている(笑)

でも豹子ちゃんには子供さんがいる。痛みと子育ては私以上のものだっに違いない。


それにしてもよくしゃべる。気が付けば誰も病室にはいない。

それでもしゃべっていた時があった。

一番私がしたかった痛みの話を豹子ちゃんに言うのはもうやめようと思った。

よほど痛かったに違いない。豹子ちゃんはしゃべり過ぎて血圧を自分で上げていた。


豹子ちゃんは、いつもパジャマのズボンから半分中シャツを出していた。

歩く時、片手を右尻につっこんで歩くので、その手を出す時にいつも出てしまうのである。

何度教えてあげても、右尻につっこんで歩く癖は直らないようであった。

豹子ちゃんは楽しい。話てると病気のことを忘れてしまう。


私も豹子ちゃんも同じホルモン治療を受けていた。

豹子ちゃんは鼻点薬。私は注射。薬から言うと私の方の薬の方がきつかった。

でも副作用は同じなので、服を脱いだり着たり脱いだり着たり2人で忙しかった。


しかし、楽しい豹子ちゃんはその日で終わってしまった・・・

翌日からとんでもなく変わっていってしまったのである。


つづく